—ギリシア語からシリア語、アラビア語への翻訳―

誰が何をなぜ翻訳したのか

 

高橋英海

 古代ギリシアの科学や哲学に関する書物がしばしばシリア語を経てアラビア語に翻訳され、さらにアラビア語からヘブライ語、ラテン語に翻訳されるという形で地中海を巡り、西欧における学問の発展に大きな影響を与えたことはよく知られている。この中で、シリア語、アラビア語への翻訳は、ラテン語への翻訳への前段階として扱われることが多く、シリア語訳、アラビア語訳自体やそれらを取り巻く環境の研究はややもするとないがしろにされてきた。(さらに付け加えるならば、東アジアに住む我々としては、ギリシアの学問の地中海を巡る伝承のみではなく、地中海を離れて東方へと向かった伝承にも目を向けるべきであろう)。ここでは、講演者が主な研究対象とするシリア語への翻訳、および、それに次ぐ時代のアラビア語への翻訳の概要を紹介しつつ、翻訳活動の動機についての考察を試みる。

 最初期の非キリスト教文献のシリア語への翻訳としては、5世紀末ないし6世紀に遡る道徳書、文法書、農学書などの翻訳がある。中でも道徳書はシリア語圏での初等教育のための教科書として使用された可能性が考えられる。

 次いで、6世紀にはガレノスの医学書やアリストテレスの論理学書などの翻訳が見られる。医者としても活躍したレーシュアイナーのセルギオス(536年没)による『テオドロス宛範疇論註解』の序文は、ガレノスの著作の中に見られる論理学への関心がセルギオスらがアリストテレス哲学に関心を抱くきっかけとなった可能性、すなわち、まずは実学としての医学への関心があり、医学の研究が哲学への関心を生み出した可能性を示唆する。

 シリア語話者たちが住む地域がイスラームによって征服された7世紀中頃以降にはケンネシュレー修道院が翻訳活動の拠点となった。セウェロス・セーボーフト(666/7年没)の『キプロスのバシレイオス宛書簡』には学知を自分たちの専有物とみなすギリシア人に対する批判が見られ、シリア語話者の間での「民族主義」が翻訳の動機として重要な役割を果たしたことを示唆する。(セウェロスのこの書簡には、学知を独占しようとするギリシア人異教徒をキリスト教徒として批判したナジアンゾスのグレゴリオスの『ユリアノス駁論』などが影響を与えている可能性も考えられる)。

 8世紀後半以降、アッバース朝の支配下では、アラビア語への翻訳と相まってシリア語への翻訳も行われたが、この時代のシリア語訳の多くは残念ながら伝存しない。アッバース朝初期に活躍した総大司教ティモテオス1世(823年没)の書簡はこの時代のシリア語圏の教会における学術のあり方について重要な知見を提供してくれる。

 アッバース朝期のアリストテレスのアラビア語への翻訳およびアラビア語によるアリストテレス註解は、最初期の翻訳、キンディー(870年没)を巡る集団による翻訳、フナイン・イブン・イスハーク(873年没)らによる翻訳、アブー・ビシュル・マッター・イブン・ユーヌス(940年没)に始まる「バグダードのアリストテレス学派」による翻訳および註解に分けることができる。

 アッバース朝期の「翻訳運動」についての近年の説明としては、運動の背景をササン朝ペルシアの伝統に求めるDimitri Gutasの説や、運動の起源をウマイヤ朝期の官僚の活動に見出すGeorge Salibaの説が重要である。ともに重要な新たな視点を提供してくれるものではあるが、今後、世界の文化史上の一大事でもあるこの「翻訳運動」についての理解を深めていく上では、翻訳活動の中核を担ったシリア語キリスト教徒の間の動向についても改めて検証することが求められる。

 

 

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