ドイツ初期印刷本の世界─メディア史・言語史・芸術史の接点を探る

 

藤井 明彦

 

 発表者は著書„Günther Zainers druckersprachliche Leistung“ (Tübingen 2007)において,ドイツ語のインキュナブラの約27%を産み出した,当時の最も生産的な印刷都市アウクスブルクの最初の印刷業者ギュンター・ツァイナーの刊本の書記法を調査した。1471年から1478年のあいだに刊行された18点のドイツ語印刷本の書記法は,同時代のアウクスブルクの手書き写本の書記法と比較すると,後者では通例eiで書かれる音素/î/aiで書かれる音素/ei/を共にei (ey)で表記する等の点で明らかに集約的な性格を示している。こういった書記法の使用によってツァイナー工房は,テクストをクリアーに提示しテクスト内容の信憑性を高めることを目指していたのだろうと上掲書では結論づけたが,この,手書き写本から印刷本へというメディア転換期において観察された言語現象を,より大きな文化史の流れのなかに位置づけることが課題として残った。

 リーグル派の芸術史家ダゴベルト・フライの,ゴシックの空間把握は「部分継時的」であるのに対してルネサンスのそれは「全体同時的」であるという指摘を,井上充夫氏の『建築美論の歩み』で知り,一つの手がかりを得た。ゴシック聖堂に入ると我々は「柱の列,窓下の蛇腹(…)を奥行き方向に追跡し,空間の構成を一つの時間的進行として体験」する。この「空間を時間的進行として体験」するという状況は手書き写本の書き手の状況と似ている。写本に書かれる文字は詰まるところ,間断を伴った1本の線である。書く者はその書字空間を時間的進行として体験しながら一歩一歩進んでいく。一方ルネサンス建築に対峙するとき,我々は全体を一挙に把握する。眼は細部をなぞって歩むのではなく,全体を同時に見渡す。これは印刷本製作の場合も同様で,活字が組み上げられて1ページ全体が仕上がってくる。眼はその空間を一挙に把握する。線から面へと解放された視線は全体のバランスや調和へと注意を拡げていき,それが書記法の集約性につながっていったと考えられる。

 その後,16世紀はじめの印刷本の書記法を調査した際に,15世紀末から進んでいた集約化をそのまま押し進めていけば,現代のドイツ語に匹敵するような体系が完成するというその手前であえて変則性を選ぶ傾向を見出した。これを,一つの体系が整備されて均衡のとれた状態に達すると,そこに変則性を持ちこみ均衡を崩そうとするマニエリスム的傾向ととらえれば,非集約的→集約的→集約性からの逸脱という言語史における流れを,手書き写本→インキュナブラ→ポスト・インキュナブラというメディア史の,更にはゴシック→ルネサンス→マニエリスムという芸術史の流れのなかで観察することができる。本発表ではそういった試みの一つとして,印刷本の書記法と印刷本に挿入されている木版画の空間把握法を時系列的に比較した。

 1472年から1517年のあいだにアウクスブルクで計12回刊行された『聖人たちの生涯(夏の部)』にはそれぞれ120点を超す木版画が挿入されているが,そこに中世的・ゴシック的と言われる次の4つの表現─「同存表現」,「正面表現」,「拡大表現」,「背景の欠落」─の有無を探った。どれも「全体を同時に把握する」というルネサンス的な時空間把握が浸透する以前の表現と考えられる。初期の刊本には少なからず見られた「同存表現」,「正面表現」,「拡大表現」が1480年代後半からほぼ姿を消すと同時に,登場人物の背後に景観を描くケースが増えてくる。それも書割的な遠景だけでなく,印刷本の挿絵という狭いスペースのなかに前景・中景・遠景が書き込まれていく。16世紀になるとその構築的な風景表現が徹底されるが,その一方で全体の雰囲気は重々しくなり,空白を嫌うように画面が描線で満たされる。15世紀の木版画が示していた明澄な空間とは明らかに異質で,ルネサンス的な空間把握を身につけながらも,中世的・ゴシック的な錯綜に身を沈めているようだ。書記法もこれと同様の変遷をたどっている。すなわちeiあるいはeyを示している音素/î//ei/の書記法を一本化すれば,複母音に関しては集約的な表記体系が完成するというその一歩手前で変化が起こり,1507年の刊本から音素/ei/は専らai (ay)で書かれるようになる。これで,出現頻度の高い音素/î//ei/の表記は合同する可能性がなくなり,この点では一挙に手書き写本時代に戻ってしまったことになる。「厳密な比例感覚を守ると同時に(…)非幾何学的なものへの激しい好みがある」(若桑みどり)と言われるマニエリスム美術と同質のメンタリティーと言えるのではないだろうか。

 

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