中世キリスト教世界におけるローマ理念の再生

―9〜10世紀の国際関係から―

大月康弘


  オットー1世(フランク王在位936-973年、皇帝として962年-)の外交使節として帝都に赴いたクレモナ司教リウトプランド。その『コンスタンティノープル使節記』(968年、以後『使節記』)で言及される「ローマ」名辞の含意を系統的に分析した。

   まず、ルードヴィヒ敬虔帝が没した840年から、オットー2世にビザンツ皇女テオファノが降嫁した972年までを観察枠とし、東西宮廷を往来した外国使節の一覧を示して、9?10世紀のキリスト教世界における「外交問題」の内実について紹介した。

   リウトプランド一行の目的は、『使節記』での言及によれば、以下の通りだった。@962年2月にオットー1世が帯びた「皇帝」称号問題、Aその後に遠征した南イタリア地域における諸侯の帰順問題、Bビザンツ側のイタリアにおける拠点バーリをめぐる攻防膠着打開問題。これらの問題を解決するために、リウトプランドは「和平」締結をめざして赴いた、とテキストは語っている。一連の問題の打開策として、Cオットー2世とビザンツ皇女との婚姻交渉、を目的に使節は派遣されていた。

  『使節記』は、980年代の、主にイタリアを舞台とした政治情勢のなかで「ローマ」名辞を頻用する。その使用のあり方はおよそ以下の通りだった。@「都市ローマ」へのこだわり、A「ローマ皇帝」の職分について、B「ローマ帝国」の広がりと限定、C「ローマ人」の内実規定。

   なによりも、都市ローマへのこだわりが強く出ている点が注目される。そして、主人であるオットー1世が帯びた「ローマ皇帝」称号、またその職分に関する言及が、繰り返し見られる。後者は、本来ビザンツ皇帝がなすべき責務として言及され、ビザンツ皇帝の責務怠慢があげつらわれる。これとの対比において、主人オットーが皇帝としての職責を全うできる存在、との主張が行われる。この点こそが、『使節記』の直接の読者だったオットー、およびその宮廷に連なる者たち、麾下の軍団将兵らに、リウトプランドが主張したかった事柄、と推論される。少なくとも、リウトプランドにおけるそのような欲求が見て取れる。

   フランク王が「皇帝」称号を帯びる場合、コンスタンティノープルとの使節往還によって、その地位を国際的に承認されたい、との意欲が、歴史的には繰り返されてきた。加えて、婚姻によって、ビザンツ皇帝と兄弟関係を結ぶことにより、その目的を達しようと交渉した。『使節記』でも、南イタリアで膠着する戦況打開のため、また「恒久的和平」構築のため、オットー2世への皇娘の降嫁が、使節派遣の目的だった、と語られる(このときは実現せず)。

   ところが、ビザンツ側の対応はつれない。冷遇にいらつくリウトプランドは、『使節記』で「怒り」を書き連ねた。しかし、われわれが冷静に注目すべきは、以下のロジックである。すなわち、都市ローマに対する皇帝の責務を強調する。そのことで、ビザンツ皇帝が「ローマ皇帝」としての職責を果たしていない、と論難される。代わって、オットー1世がこの責務を果たしている。だからオットーは「ローマ皇帝」としてふさわしい。

   都市ローマの守護者としてのローマ皇帝像は、いわゆる『コンスタンティヌス帝の寄進状』Constitutum Constantini によって知られるものの、リウトプランドはまだその存在を知らない。「帝国」全体からイタリアを、特に都市ローマを切り分け、その「堕落を救った」と主張されるオットーの「皇帝」としての資格を喧伝すること。そこに『使節記』の主張と歴史における妙味がある、と考えてよい。

  当該期における他のテキスト所言との照合を進めれば、「ローマ」理念の構造と、実際の歴史展開におけるその使用法、含意がさらに明らかになってこよう。 

 なお、この使節の訪問を記録するビザンツ側テキストはいっさい残存しない。

 

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