イエズス会のレトリック教育とプロギュムナスマタ(予備練習)の伝統
――デカルト『方法序説』から出発して――

久保田 静香

 デカルト(1596-1650)は1607年春から1615年秋までの8年半を、イエズス会ラ・フレーシュ学院で寄宿生として過ごした。『方法序説』(1637)において「ヨーロッパで最も有名な学校のひとつ」と書かれている学院では、ルネサンスの人文主義思想をとりこんだ画期的な教育プログラムが実施されていた。とりわけそこで行なわれていたレトリック教育が、イエズス会学校にいっそうの独自性をあたえていた。本報告では、まずデカルト『方法序説』「第一部」および「第二部」で語られるラ・フレーシュ学院での教育内容にかんする記述から出発し、それにもとづき、イエズス会の編纂による『学事規定Ratio studiorum』(決定版1599年)を適宜参照して、実際に17世紀初頭のイエズス会学校においていかなるレトリック教育が行なわれていたのかを具体的に確認した。そのうえで、古典古代より知られていたプロギュムナスマタと呼ばれる作文の予備練習が、ヨーロッパ中世期においておもに東のビザンツ帝国で発達して1500年の長きにわたって受け継がれ、16世紀前後に西側のラテン語圏に流入し、それがイエズス会学校のレトリック教育にも受け入れられるにいたった過程を明らかにした。

 『学事規定』は全編ラテン語でイエズス会教師向けに書かれたものである。この教育テクストはイエズス会第5代総長クラウディオ・アクアヴィーヴァの主導で、1586年に第一次草案、1591年に第二次草案、1599年に決定版が策定された。この1599年版がフランスで初めて実地で適用されたのがラ・フレーシュ学院であり、また17世紀前半はイエズス会教育史以上、同会設立の学校がどこも『学事規定』の規則に最も忠実であろうと努めた時期でもあった。よって、デカルトもおそらくはこの1599年版の内容にもとづいた授業を受けていたであろうとの想定のもと、『方法序説』の記述との比較を試みると、両者がほぼ時系列に沿ってきれいな対応関係をなしていることがわかる。

 とりわけ、イエズス会教育の人文主義的方針が直に反映されている下級クラス(文法3年間、人文学1年間、レトリック学級1年間)においては、古典古代のテクストをもとに――多くの場合、キリスト教の教義にそぐわない箇所を削除して――、キケロの文体を理想とする「完全なる雄弁」へと到達するための猛訓練が、日々生徒たち(現代の日本では小学生から高校生に相当する未成年たち)に課されていた。少年デカルトも日々この作文練習に身を浸していたわけである。

 アヴィニョン写本は、ルクセンブルク皇帝家の外交活動を通じて、地理的に遠く離れたプラハ宮廷に齎されていた。プロギュムナスマタとは、古代ローマ時代の少年たちの教育の中心となった「模擬弁論declamatio」に先立って修めるべき「予備訓練」であり、紀元後1世紀から5世紀にかけて「ヘルモゲネス修辞学体系Corpus Hermogenianum」の一部を構成し、ビザンツ帝国のレトリック教育の支柱をなした。キケロやクインティリアヌスの著作が大きな影響力をもった西の中世ラテン語圏とは異なる教育文化が、同時期の東のギリシア語圏に浸透していたことの意義は大きい。15世紀後半に東西の交流が再開するちょうどそのころ、ネーデルラントの人文主義者ルドルフ・アグリコラがアプトニウスの『プロギュムナスマタ』(4世紀)をラテン語に翻訳すると、西側文化圏にこの東側由来のレトリック教科書がたちまちにして市民権を得るようになる。16世紀半ばに設立された新興の修道会たるイエズス会の学校でもまたこの東のレトリック教育は積極的に摂取されるに至り、以後17・18世紀をつうじてイエズス会士の手で独自のプロギュムナスマタ教科書が編纂されるなどして、近代の西欧教育の場においても非常に大きな役割をはたすこととなった。

  デカルトはラ・フレーシュ学院で得られた「文字=書物による学問les lettresをまったく放棄してしまった」と書いているが、その学問の含む内容が、古典古代からラテン中世、スコラ学、ルネサンス人文主義だけでなく、東のビザンツの学術的伝統までをもとりこんだものであったということ、そうした極めて広く大きな学問世界がデカルトの「新しい哲学」とその表現を支えていたということを、本報告では浮き彫りにすることができたと考える。

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