フランチェスコ・ブルラマッキと「異端の都市」ルッカ ―近世イタリア都市の政治と宗教をめぐる一考察― 

高津美和

  近年、ヨーロッパの宗教改革研究では、「宗教改革」を多様な社会的・文化的文脈において議論する傾向にあり、「宗教改革」がイタリアに与えた影響についても検討が進められている。そして、イタリアの都市の中ではとくに、宗教改革思想の浸透が顕著であったとして、トスカーナの都市ルッカに注目かが集まっている。同市からは16世紀後半にジュネーヴへ多数の亡命者が輩出されたが、これはイタリアの他都市には見られない現象であった。宗教改革思想は、アルプス以北の諸都市と交易する商人、彼らが持ち込んだ書籍、あるいは都市に立ち寄る説教師といった様々な経路を通じて流入したが、ルッカではさらに、サン・フレディアーノ修道院長のピエトロ・マルティレ・ヴェルミーリや上級学校教師のアオニオ・パレアリオによる市民への教育活動を通じて、思想の浸透が促進されたと推測されている。しかし、こうした宗教改革思想の普及に際して、ルッカ市民はただ受動的な姿勢にあったわけではない。ヴェルミーリらの活動を後押ししたのは、宗教改革思想に共感 していたと思われる、都市の政治エリートであった。16世紀のルッカの都市政府は「アンツィアーニ」と呼ばれる少数の有力者によって構成されたが、この職は限られた数の家門によって独占されていた。彼ら政治エリートの中に、宗教改革思想の影響を受けた人々が多数存在したことは、当時の「異端の都市」ルッカに関する記述にも明らかである。本報告では、ルッカで都市政府の長に相当する「正義の旗手」職を務めた政治エリートの一人、フランチェスコ・ブルラマッキが企図した陰謀事件をてがかりに、16世紀のルッカの政治と宗教の関係性、そしてその変化を考察した。

 1546年8月26日、フランチェスコ・ブルラマッキは、ピサに侵入する計画を告発され、逮捕された。尋問記録からは、この行為が彼の壮大な計画の一部に過ぎなかったこと、そして、その計画には二つの目的があったことが判明する。一つ目の目的は、当時、ルッカ同様にフィレンツェによる支配への脅威を感じていたシエナや、既に支配下にあったピサなど、近隣のトスカーナの都市を結束させて、自由で独立した都市連合を形成することだった。そして二つ目の目的は宗教に関するもので、教皇やカトリック教会の堕落や腐敗を改革し監督する役割を、皇帝カール5世に委ねること、また、カトリックとプロテスタントの間の宗教的寛容を実現することだった。尋問記録には、これらの目的を達成するため の詳細な計画が供述されているが、計画は未然に発覚し、失敗に終わった。

 先行研究では、ブルラマッキの信仰や思想の検討を通じて、彼の計画の動機や着想源を 明らかにしようとする試みがなされている。彼の人間関係から、ルッカの多数の政治エリートと同様、宗教改革思想に共鳴していた可能性が指摘されるとともに、同時代人の日記や尋問記録の供述から、人文主義の影響も指摘されている。たとえば、プルタルコスの『英雄伝』は、計画の具体的な実行方法など、彼に多くの示唆を与えたと思われる。

 しかし、こうした思想的傾向を規定していた16世紀ルッカの政治と宗教については、検討の余地が残されている。ブルラマッキの裁判は、ルッカの都市政府がフィレンツェによる介入の要求を巧みに排除しながら、皇帝の影響下にあったミラノの監督で行われたが、 これには14世紀以降、ルッカが帝国自由都市であった事情が反映されている。また、ブルラマッキの事件の後、ルッカでは異端取締の政策が本格化し、多数の市民がジュネーヴへと亡命を始めた。そして都市の宗教政策は次第に対抗宗教改革の方針に沿ったものと変化 していったが、この流れを従来の解釈、すなわち、「カトリック改革」による直線的な教会の改革運動として理解するだけでは不十分であろう。ブルラマッキの事件への都市ルッカ の対応からは、ローマ教皇庁の圧力だけでなく、フィレンツェや皇帝との関係も都市の政治と宗教に影響を与えていたことが推察されるのである。

 

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