「12世紀のサンドニ修道院における擬ディオニシオス文書の伝統」

 

 

坂田奈々絵

  擬ディオニュシオス文書は5,6世紀頃にシリアで書かれたとされる一連の文書群を指す。12世紀では、13世紀に訪れる大々的な神学的受容を前にして、この文書は様々な形で取り上げられていた。その中でも、しばしば文化史における受容の大きなトピックとして扱われてきたのが、サンドニ修道院長シュジェール(c.1081-1151.1.13)とゴシック建築への影響である。シュジェールはサンドニ修道院付属聖堂の改築を行った人物であり、そこで作り出された内陣部分は、ゴシック建築様式の端緒とされてきた。そして彼の記録に見られる、神学的美意識や「光」に関係する碑文等は擬ディオニュシオス文書からの影響をうけたものである、とE.パノフスキーらによって指摘されてきた。しかしこうした見解は、現在では様々な議論の対象とされている。本発表ではそれを踏まえ、シュジェールと擬ディオニュシオスの直接的な関係について論じるのではなく、擬ディオニュシオス文書の西欧への伝来と受容について見ることから考察を行った。シュジェールには擬ディオニュシオス文書からの引用や、それについて言及を一切行っていない。一方で、パノフスキーやその他の研究者によって指摘されているところの、サンドニ修道院と擬ディオニュシオス文書の特別な関係性は、シュジェールの記述を見直す上で看過することのできない要素である。

  さて、サンドニ修道院における擬ディオニュシオスの伝統は二つの面から考えられる。第一には、聖ドニ伝における、パリ司教ドニとアレオパゴスのディオニュシオの統合であり、第二には文書そのものの西欧への伝来である。これらの文書の伝来以前にも、キリスト論やイコノクラスムに関する説教や公会議文書の中で、部分的な形での擬ディオニュシオス文書への言及は行われていた。しかしこの時点では、擬ディオニュシオス文書と聖ドニの結びつけは曖昧なものである。しかし827年になると、ミカエル二世がルイ一世に擬ディオニュシオス文書を寄贈し、それが聖ドニの著作としてサンドニ図書館に受け入れられた。そして当時の修道院長ヒルドゥインが文書全体の翻訳を指揮し、またその内容を踏まえた聖ドニの受難伝Post beatam et salutiferanが執筆されることによって、神学的議論の場での引用のみならず、聖ドニ崇敬そのものの方へと、擬ディオニュシオス文書の影響が及んだのではないかと仮定する。

  1000年代に書かれたとされるCaeli cives(F:PSG1186)という聖ドニ賛歌ではヒルドゥインによる受難伝を踏襲した聖ドニの生涯が物語られている。ロバートソンは、この聖歌全体のclare、lumen、splendorといった「光」にまつわる言葉の多用を指摘する。「光」の用語は、擬ディオニュシオス文書の思想体系の中核をなすものである。つまり擬ディオニュシオスは、「光」は神の働きそのものとして描写し、『神名論』にて神の最も相応しい名称として提示した。ヒルドゥインが翻訳を指揮した『天上位階論』冒頭でも、この3つのラテン語が頻繁に繰り返されている。また聖ドニに帰属するものとしての「光」の用語の使用は、擬ディオニュシオス文書が入る以前の聖ドニ賛歌には十分に見られない。しかしこの「光」のとりいれをもって、「光の形而上学」の思想体系そのものが崇敬のうちにとりいれられたのは困難であり、むしろ、擬ディオニュシオスの光が西欧世界にすでに存在した「光」のイメージと融合した形として受容されたのだと考えられる。11世紀に作られたと推定される聖ドニのための韻文聖務日課(Mazarin384)には、ヒルドゥインが受難伝の中で重要なものとして取り上げた「日食」のモティーフが登場する。日食は擬ディオニュシオス文書第十一書簡に登場するものであり、ヒルドゥインはこの僅かな記述を、擬ディオニュシオス文書に通底する「光」の原理と結びつけた形で紹介した。それによって、擬ディオニュシオス文書においては形而上学的概念として強調される「光」の概念が、脱・形而上化された形でとりいれられ、それがさらに聖歌の中で用いられていることが指摘できる。

  シュジェールが碑文において「光」にまつわる言葉を用いる際にも、このような「光」の受容と同様の傾向が見いだせるのではないだろうか。またそれを踏まえることによって、現在のシュジェール研究において重んじられているラテン教父や詩歌からの「光」の影響を、今一度東方からの影響を鑑みつつ、総合的に読むことができよう。

 

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