「近代歴史学の父」ランケと中世研究

佐藤真一


  1854年の秋、ランケ(1795−1886)はバイエルン国王マクシミリアン2世にヨーロッパ史の連続講義をおこない、その中で「おのおのの時代はどれも神に直接する」と語った。それから1年余り後、ベルリン大学の講義においてもほぼ同じことばを繰り返した。しかも、それは「中世史講義」においてであった。ランケにとって、中世を単純に「暗黒」や「隷属」の時代と見なすことはできないのである(1863年の講義)。ギボンが中世に反対していると指摘していることからも、ランケがこうした一連の主張において、18世紀の進歩史観に疑問をさしはさんでいることが明らかになる。すなわち古い時代だから価値がないわけではなく、中世が暗黒時代であると切り捨てることもできないと述べたのである。

 このような歴史の捉え方は、ランケに固有のものであるばかりでなく、時代のうねりも大きく影響していると思われる。彼の少年期はナポレオン戦争の時代であり、ライプツィヒ大学入学は、解放戦争の時期と重なっている。19世紀初頭に生じた新たな国民意識とドイツの過去への憧憬が高まっていくのである。アルニムとブレンターノが編纂した民謡集『少年の魔法の角笛』、グリム兄弟による童話の収集、歴史法学の台頭などもそうした流れの中に位置する。ラウマーの『ホーエンシュタウフェン史』は、ドイツ中世を賛美し、ドイツの偉大な時代を考察している。

 ランケは述べる。「旧体制の復活が引き続き優位を占めたことは、考え方、生活、そして研究にさえ著しい影響を与えた。歴史研究は、実際、ナポレオン的理念の独占支配に対する反抗のなかで発展したものである」。

 こうした時代の潮流のなかで、ランケ自身1817年の秋に、マイン、ネッカー、ライン地方への旅に出、ヴュルツブルクの巡礼教会ケッペレを訪ね、ハイデルベルクではボアスレが収集した中世ドイツ絵画に感銘を受け、建築が中断されたケルンのゴシック教会を見るのである。この経験が、ランケに中世への関心を深めさせることになった。

 一方、フランクフルト・アン・デア・オーダーのギムナジウムの教員になった翌年の1819年秋から1年間、ランケは古代文学史の講義を担当し、その準備の過程で、古代の歴史書を体系的に読み、歴史家となる決意を固める。そのような中でランケは、当時人々を魅了していたウォルター・スコットの歴史小説『クウェンティン・ダーワード』を読み、歴史上の君主たちがけっして語らなかったことを語らせていることに反感をいだき、あくまで史料に即する批判的研究をめざすことになる。1824年に出版された『ロマン的・ゲルマン的諸民族の歴史』の付録『近世歴史家批判』は近代歴史学の史料批判の道しるべとなった。その学識が評価され、ランケは1825年にはベルリン大学に招かれることになる。

 そのランケが注目したのが、ペルツの史料探索の記録である『イタリア旅行』(1824)であった。ペルツこそ、1823年に、中世史料集成の大事業である『モヌメンタ・ゲルマニアエ・ヒストリカ』の編纂主任となり50年にわたってその任についた人物であった。

 1826年にその第1巻が出版された『モヌメンタ』の編纂にランケは敬意をあらわし、ベルリン大学での演習でも取り上げ、ヴァイツをはじめ愛弟子たちをこの大事業の協力者として推薦したのであった。ランケ自身、最晩年の大著『世界史』において、『モヌメンタ』を繰り返し引用している。

 こうしてランケは、学問的な基礎の上に立ちながら、中世史を彩り豊かな世界として再生(リヴァイヴァル)させる一端を担ったのである。

 

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