「複合的な暦と時間意識 −『辺境』としての中世イベリア半島−」

黒田祐我


  中世イベリア半島は、教皇と皇帝という二つの権威を中心点とする楕円的なラテン・キリスト教世界の最西端を構成していた。同世界は、神による天地創造を始原とし、イエス・キリストの誕生を初年とする年代記法、いわゆる現在の西暦を用いて、事績を現代に至るまで秩序だて続けてきている。アダムとエヴァの楽園追放から最後の審判までを直線的に繋ぐ『世界年代記』という歴史叙述形式において端的に現れている、かかる時間認識の点においても、イベリア半島は同じ文化に属していたことは間違いない。 
  しかしながら、中世イベリア半島は西欧世界の西端に位置するという特殊性のゆえに、暦の使用の点で少々異なる展開をみせている。13世紀の『第一総合年代記』においては、天地創造から数えた年数をはじめとして、ローマ建国年(Ab urbe condita)、ローマ皇帝治世年、キリスト受肉暦など、様々な年数換算法が並立して用いられている。この中で最も頻発するのが、本報告の主題となるヒスパニア暦であった。
  ヒスパニア暦とは、その名が示す通り、ローマの支配下に半島が組み込まれた時期に成立したとされている。実際の起源は不明ではあるが、少なくとも中世に生きた人々は、この暦はアウグストゥスによって実施された全支配領域規模の戸口調査(ケンスス)を端緒とすると考えていた。既にセビーリャの聖イシドルスの『語源誌』には“Aera”の項目で説明され、より詳細な形でその成り立ちと採用までを13世紀の『第一総合年代記』の記述が存在している。
  もちろんのこと、この初の戸口調査との主張は現在において歴史的な事実であると証明されてはいないが、紀元前38年1月1日からを初年と考え、「eraの年」38年においてヨセフとマリアが貢租を支払ったと考えた。よってヒスパニア暦は、当時の西欧世界で一般に使用されていたキリスト暦に38年を加算した形で史料にたち現れてくるのである。紀元後381年の墓碑銘でその利用が確認され、西ゴート王国時代を経て、いわゆるイスラームの侵入の後に、北のキリスト教諸国において、このヒスパニア暦の利用が一般化している。
  ヒスパニア暦の利用の継続は、年代記という叙述史料のみならず、証書という文書史料においても見られる。とりわけ、アストゥリアス=レオン王国、そしてその後継たるカスティーリャ王国においては、王権が発給する証書あるいは勅令のみならず、聖俗両貴族から、より下層の民に至るまでの者達が作成させた売買寄進文書に至るまでのほぼすべてが、常にヒスパニア暦にもとづいて作成された。名実ともに、同王国はヒスパニア暦を採用し、利用し続けていたことは明白であろう。同王国においては、1383年にセゴビアにて開催されたコルテス(身分制議会)の決議が発布されるまで、長きにわたってこの独自の暦が利用し続けられた。
  しかしながら、カスティーリャ以外の諸国においては、状況は非常に異なる。本報告では、このような半島内におけるヒスパニア暦の使用の継続の地域的差異をあぶりだそうと試みた。カタルーニャ諸伯領においては、中世盛期つまり11世紀の時点で既にほとんど用いられてはおらず、アラゴンやナバーラにおいては13世紀前半期でほぼ消滅する。そしてカスティーリャとポルトガルは、それぞれ14世紀末、15世紀初頭まで用い続けられた。
  また周知の通り、中世において同半島は、ラテン・キリスト教世界に属するキリスト教諸国(カスティーリャ王国、ポルトガル王国、アラゴン連合王国、ナバーラ王国など)と、イスラーム世界に属するアンダルス(イスラーム・スペイン)とが並存し、いわゆる「レコンキスタ(再征服運動)」と総称されている融和と軋轢の舞台であった。かかる事実は、必然的に暦の使用とそこにたち現れる時間意識にも甚大な影響を及ぼしえたと考えられる。たとえばアンダルスとの「交渉」においては、ヒスパニア暦と同時に、ヒジュラ暦も用いているからである。つまりは、「交渉」相手に応じて暦を使い分ける柔軟さをそこから見ることが可能であった。中世イベリア半島における暦から見る時間意識とは、ラテン・キリスト教世界とイスラーム世界との間の「辺境」ならではの重層性に根ざしたものであったと考えられるのである。  

 

 

 

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