写実と肖似性

「ジョン・コレットとヒューマニズム」

                      大川なつか

 

 本報告では、イギリス・テューダー初期に活躍したジョン・コレット(John Colet,1467-1519)におけるヒューマニズムについて、彼の聖書解釈にみる思想的特質と、それに依って立つところの聖パウロ学校(St.Paul’s School)での教育を手がかりにみた。

 コレットは、当時社会的に躍進していく中産階層出身で、ケンブリッジ大学を卒業した後、1492年から1496年までの間イタリア、フランスに滞在している。イタリアでの足取りについてはローマに立ち寄った以外に詳細は分かっていないが、帰国後マルシリオ・フィチーノMarsilio Ficino, 1433-1499)と往復書簡を交わしていたことから、フィレンツェ・ヒューマニズムの影響を受けたことが理解される。

 1497年から1503年の6年間、コレットはオックスフォードでパウロ書簡に関する聖書解釈講義を行ったが、それは中世末期のスコラ的方法論とは異なる、ルネサンス期の新しい捉え方だった。彼は、ヴァッラLorenzo Valla, 1407-1457)やエラスムス(Desiderius Erasmus Roterdamus, 1466-1536)といった同時代の聖書解釈者同様、聖書をキリストの教えを記した一つのテクストとして捉え、文脈上の関係性に留意しながら、それぞれの聖句の持つ意味を注意深く解釈する作業を前提としていた。しかしなおその上に、彼独自の聖書解釈上の方法論的特徴が見いだされるのである。すなわちそこには、フィチーノを介して知り得た新プラトン主義の影響が強く認められ、コレット自身がディオニュシオスの註解書(『天上位階論』De caelesti hierarchia、『教会位階論』De ecclesiastica hierarchia)を書き著していたように、その神秘思想をもって霊的導きによる解釈を重視したのである。このような神の言葉に対する捉え方こそが、コレットのキリスト教的ヒューマニズムを特徴付けるものだった。

 道徳的教説を多分に含んだオックスフォードでの講解は評判を呼びやがてヘンリー7世によってロンドンにある聖パウロ司教座教会首席司祭に任命されるところとなった。コレットは、自ら導き出したキリストの教えをロンドン市民に伝え、教会の改革にも着手するようになる。1511/12年に行った、高位聖職者会議開会式での改革的説教(Convocation Sermon)は、聖職者の本来の務めをそれぞれに自覚させるという意味において、あくまでもカトリック教会内部の改革であり、決して宗教的改革を意図するものではなかったのだが、ともかくも彼は生涯を通じて、大人には説教を、子どもには教育を通じて人々の信仰の立て直しを図ったのである。

 1509年から1512年にかけて、既存の教会付属文法学校とは異なる、聖パウロ学校がコレットによって設立された。この学校は、トマス・モア(Thomas More,1478-1535)も息子を通わせるなど、エラスムス、初代校長となったウィリアム・リリー(William Lily, 1468-1522)らの助力を得て、後続するヒューマニズムの学校の雛形となった。

 コレット自身、巨額の費用を設立基金として投じたのみならず、学校用の教材作成、教師の選定、「聖パウロ学校学校規則」(Statuta Paulinae Scholae1518の規定など、教育そのものに積極的に関与した。本報告で取り上げた「学校規則」の、校長の資質に関する項目、子どもたちの学校生活に関する項目、教育内容に関する項目には、彼のヒューマニズムの精神がよく表れている。

 コレットは子どもたちに対し、神の言葉を捉えるために最も必要とされた霊性さを鍛えるための禁欲的な信仰生活が奨励し、そうした生活と共にある祈りをもって、英語とラテン語によるカテキズムをもってキリスト教の基礎を学び、純正なる言葉による文法・修辞教育を受け、題材としてはキリストの精神が流れる著作に対する霊的な読解を通じて、愛を中軸としたキリストの教えが実践できるよう求めていたのである。かくして聖パウロ学校生の一人で、後に代表的なイギリス・ヒューマニストと数えられるトマス・ラプセット(Thomas Lupset,1495-1530)は、コレットの後継者としてその精神を引き継いでいった。

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